【かながわ経済新聞 11月号掲載】

第6回 渡久クリエイト

美容機器事業の「父子鷹」目指し

■美顔器の開発始める

今年は“昭和99年”に当たるそうだ。幕末、幕臣ものの名作を多く遺した昭和中期の小説家・子母澤寛を知らない人が増えるのも致し方ない。だが、映画やドラマ化された「座頭市」の原作者、と付け加えればピンとくる人も少なくないかもしれない。

その子母澤の佳作に「父子鷹(おやこだか)」がある。型破りながら自身の信念を貫いて生きた勝海舟の父・勝小吉の生涯をつづったもので、このヒットから、優れた能力をともに持つ父と子のことを「父子鷹」と例えるようになった。

株式会社渡久クリエイト(高津区久本)は、美顔器をはじめとする美容機器の開発・製造をなりわいとし、今年創業33周年を迎えた。創業者で現社長の渡部文吾氏が、自宅に設立した「有限会社渡久クリエイト」を発端とする。当初は明確な事業目的はなかったと振り返るが、前職などで培った計測・測定機器関連の知見と真摯な開発姿勢が口コミで広がるにつれ、大手からの受託案件が舞い込むようになった。

ある時、明日納品という機械の不具合を見てほしいとの緊急案件を見事に「解決」すると、その腕にほれた商社が恩義を添えて美顔器の開発の話を持ち込んできた。これが今日の同社を支える美容機器事業の起点となった。

1995年の株式会社化を経て翌96年、世界初となる携帯用超音波美顔器を、ODM(開発・製造受託)という形で世に送り出すと、渡久クリエイトの名は美容クリニックやエステ業界内でセンセ ーションを巻き起こした。新たな開発の依頼が次々と寄せられるようになった。

こういった場合、しばしば見かけるのはむやみに背伸びして高転びしてしまうケースだが、渡部社長は違った。「Made in Japan」へのこだわりを掲げて品質と信頼を最優先する経営を堅持し、臥龍(がりょう)に徹して時が熟するのを待った。

■1年で1000人に会う

転機は2017年に訪れた。大手商社に勤務し国内外を飛び回っていた息子の渡部悠氏が専務として入社、右腕として活躍し始めたのだ。顧客の業績に左右されがちなODMビジネスを補完するため、自社ブランドの本格展開に欠かせない営業のプロを求めていた文吾氏と、管理業務の比率がいつしか増えてしまい、顧客をダイナミックに開拓していく商社マンらしい仕事ができる環境を渇望していた悠氏のタイミングが、図らずも合致したことが背景にある。

フィールドは違えども共に生き馬の目を抜くビジネスに携わってきた父子ならではの阿吽(あうん)の呼吸もあったに違いない。

ともあれ、「新しい仕事ができる」と水を得た魚となった悠専務は早速、最初の1年間だけで約1000人と会って名刺を交換。経営者交流会にも飛び込みであっても顔を出し、人脈を広げた。片や文吾社長は、自社の技術を集大成した自社新ブランド「TILLET」を19年8月に満を持して立ち上げ、そのマーケテ ィングとブランディングを息子に一任した。

その「TILLET」は、直後に襲ったコロナ禍を乗り越え、今秋までに第4弾の商品を上市するまでに成長した。機能やデザインもさることながら、美容機器の大半が外国製という中で日本製という特別感をうたったことが消費者の心に刺さり、シリーズ累計で5万台を売り上げるヒットとなった。

■経営に口出さず

手応えを得た文吾社長は、事業承継の問題にもこれが好機として踏み込んだ。5年後をめどに、会社の采配を全面的に悠専務に移管すると明かした。会長にも就かず、「経営には一切口を出さない」とも公言する。令和の時代に即した若い世代に任せようという固い決意の表れである。

そんな父の姿を前に、悠専務も「準備」に余念がない。21年に加盟した川崎市青年工業経営研究会(通称、二水会)の場では、メンバーとの「腹を割った」やりとりなどを重ねて自覚と責任を醸成する日々だという。美容機器事業の「父子鷹」と呼ばれる日はそう遠くないかもしれない。

取材 かながわ経済新聞